総社市の『歴史』について<古代編>
■概要
総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。
そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(古代)』について触れてみる。
なお、総社市のWikipediaのURLは以下の通り。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82
■吉備国の中心地
その昔、倭国(日本)には、「大和」「吉備」「筑紫」「出雲」の四代王権(四代王国)が存在していた。
ヤマト王権に匹敵する勢力として「吉備国」という古代王国が存在しており、その中心地が『総社』にあったとされる。
勢力や権力の象徴として古墳が存在するが、総社の代表的な古墳として「作山古墳」が存在している。
作山古墳には、「稲速別命」が被葬されていると言われている。
稲速別命は、吉備下道国出身の豪族で、「吉備武彦命」の子孫。
吉備武彦命は、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」と共に蝦夷遠征など行うほどの武力の持ち主。
「日本書紀」には、ヤマト王権と吉備政権の間で内乱が勃発したと記されている。
(=吉備氏の乱)
■鬼ノ城の築城
その昔、朝鮮には「高句麗」「百済」「新羅」「任那」の4国が存在していた。
「倭国(日本)」は「百済」と仲が良かった。(鉄資源の供給地だったり、仏教を日本に伝えたため?)
562年、「任那」は「新羅」に滅ぼされた。
627年、「百済」は「新羅」を攻め入る。「新羅」は「唐(中国)」に支援を求める。
660年、「百済」は「新羅と唐の連合軍」に侵攻されて滅ぼされた。
663年、「百済」の王族や遺族たちは「倭国」の支援を受けて、白村江の戦い(百済復興運動)を起こしたが敗れる。
668年、「高句麗」は「新羅と唐の連合軍」に侵攻されて滅ぼされた。
白村江の戦いに敗れた「倭国」は、「新羅と唐の連合軍」の侵攻を防ぐために各地に城を築いた。
その一つが『鬼ノ城』。
■最後に
歴史的に考えて、総社は非常に興味深い土地である事が分かりました。
こんなに勢力を持っていた国の中心地だったんですね・・・・・。
あの有名な「ヤマトタケルノミコト」とも繋がりがあるとは驚き。
あと、総社を見下ろしている『鬼ノ城』も、そういう背景で築城されたなんて初めて知りました。
総社に古墳が多いのも、こういう理由があったんですな・・・。
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