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総社市の『地形』について

■概要 総社市の地形情報として知っている事としては、以下くらいしかないので、今回は総社市の『地形』について掘り下げていく。 岡山県の中では、中心から南西にズレた場所に位置する 北西から南にかけて高梁川を有していて渓水に恵まれている 全体としては丘陵地が有しており、南東には平地が存在している Googleで「総社市 地形」と検索すると、はじめに以下のPDFが引っかかった。 https://www.city.soja.okayama.jp/data/open/cnt/3/331/6/2syou.pdf 本PDFに記載している事をベースとし、総社市の『地形』についてまとめていく。 ■総面積と土地利用 総面積は「212㎢」である。 (岡山県が「7114.32㎢」なので、岡山県全体の3%程度という事が分かる) 総社市全体「212㎢」のうち、以下の割合で土地利用されている。(平成16年時点) (資料内では「ha(ヘクタール)」で記載されているが、今回の単位は「㎢(平方キロメートル)」とする) 森林 134.35㎢(63.4%) 農地 26.30㎢(12.4%) 水面・河川・水路 13.43㎢(6.3%) 宅地 13.25㎢(6.3%) 道路 10.40㎢(4.9%) その他 14.27㎢(6.7%) □森林 森林全体134.35㎢のうち、「天然林」「人工林」の大きさと割合は以下の通り。(平成19年3月31日現在) 天然林 107.66㎢(80.1%) 人工林 22.37㎢(16.7%) その他 3.95㎢(2.9%) □農地 農地全体26.30㎢のうち、「田」「畑」の大きさと割合は以下の通り。(平成18年7月1日現在) 田 22.93㎢(87.1%) 畑(普通畑) 2.26㎢(8.6%) 畑(樹園地) 1.01㎢(3.8%) □水面・河川・水路 水面・河川・水路全体13.43㎢のうち、「河川」「水路」「ため池」の大きさと割合は以下の通り。(2006年度現在) 河川 9.53㎢(71.0%) 水路 2.23㎢(16.6%) ため池 1.67㎢(12.4%) 『河川』について、 北から南にかけて、岡山県三大河川の一つであり、一級河川の「高梁川」が貫流している 吉備高原や各丘陵地の谷筋からは「日羽谷川」「槇谷川」「新本川」などの支流が流れ、市内で「高梁川」に合流している 『水路』につ

総社市の『歴史』について<平成時代編>

■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(平成時代)』について触れてみる。 なお、平成時代は1989年~2019年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■第2代総社市の誕生 前回寄稿した昭和時代編において、「総社市」が誕生した。 平成に入っても、統廃合はまだ終わらない。 2005年、『総社市』は、「都窪郡山手村」「清音村」と合併(新設合併) この時には私も既に生まれており、合併したという記憶が鮮明にある。 少年野球をしていたので、当時は市外のチームだった山手や清音のチームと練習試合などで戦った記憶がある。 ■「総社市の歌」制定 2015年、新設合併10周年を記念して「総社市の歌」を制定。 この時には既に岡山から東京に上京していたため、今回調べていて初めて知った。 総社市の歌については、総社市HPにも記載がある。 https://www.city.soja.okayama.jp/seisakutyousei/siseizyouhou/sojashi_puro/sojashinouta.html なお、歌詞については見当たらなかったため、ここに書き記しておく。 -------- 以下、歌詞。 -------- あけぼのの雲 たなびいて さんざめく川 海へ行く 流れよ 流れ わが大河 緑の大地 いのちに溢れ 鬼ノ城山の 空高く 五層を巡る 陽のひかり 回れよ 回れ 希望の輪 未来へつなぐ 歴史と誇り 総社よ 総社 ひかり満ち 総社よ 総社 わが故郷 わが故郷 ------- 以上、歌詞。 -------  ■「西日本豪雨」による甚大な被害 2018年、西日本豪雨により大きな被害が出る。 西日本で線状降水帯が発生し、岡山も甚大な被害となった。 私は東京にいてニュースを常にチェックしていて、岡山にいる友達にも避難を呼び掛けていた。 幸いにも私の周りの人達は難を逃れたが、中には実家が浸水した人もいた。 私は、上司に状況を伝えて3日間の有休を取得して、ボランティアとして帰省した。 3日間の有休と土日を

総社市の『歴史』について<昭和時代編>

■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(昭和時代)』について触れてみる。 なお、昭和時代は1926年~1989年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■総社市の誕生 前回寄稿した明治時代編において、大政奉還の影響による行政区画の統廃合により、「総社村」が誕生し、「総社町」が誕生した事を記載した。 昭和に入っても、まだ統廃合は止まらない。 1951年、『吉備郡総社町』は、「吉備郡服部村」「吉備郡神在村」と合併。 1954年、『吉備郡総社町』は、「秦村」「都窪郡三須村」と合併。 1954年、『吉備郡総社町』は、「新本村」「山田村」「久代村」「池田村」「阿曽村」「都窪郡常盤村」と合併 →これと同時に、市制の施行により、『総社市』が発足  ←総社市の誕生 1972年、『総社市』に、「吉備郡昭和町」を編入。 なお、明治編は1908年で締めくくっていて、昭和編は1951年から始まっていて、43年ものブランクが生じている。 詳しい話は分からないが、第二次世界大戦などが発生した影響で、統廃合どころの話ではなかったのだと推察している。 ■財政再建団体の適用 1956年~1965年の間、財政再建団体の適用を受ける。 「財政再建団体」とは、Wikipediaによると、 ・朝鮮戦争終結による反動不況の影響を考慮した、自治体を救済する仕組みとして施行された制度 ・赤字額が標準財政規模を超えた破綻状態にあり、地方財政再建促進特別措置法基づき財政再建計画を策定し総務大臣の同意を得た地方自治体の事を「団体」という ・適用中は地方自治体として主体的に「地方自治」を行えない、すなわち、国の指示に従う必要がある https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E6%94%BF%E5%86%8D%E5%BB%BA%E5%9B%A3%E4%BD%93 第二次世界大戦後の日本の状況を鑑みると、Wikipediaにも記載されている数多くの地方自治体が団体となっていた理由も推察できる。 なお、少し前の

総社市の『歴史』について<明治時代編>

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 ■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(明治時代)』について触れてみる。 なお、明治時代は1868年~1912年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■廃藩置県 以前の記事で江戸時代について触れた際、廃藩置県(1871年)により各藩が県に置き換わった事を記載した。 以下はそのおさらい。 浅尾藩 藩庁:浅尾陣屋(現在の岡山県総社市) 藩主:蒔田家 廃藩置県後:浅尾県 岡田藩 藩庁:岡田陣屋(現在の岡山県倉敷市真備町岡田) 藩主:伊東家 廃藩置県後:岡田県 足守藩 藩庁:足守陣屋(現在の岡山県岡山市北区足守) 藩主:木下家(一時的に浅野氏) 廃藩置県後:足守県 岡山藩 藩庁:岡山城(備前国御野郡、現在の岡山県岡山市北区) 藩主:池田家(最初だけ小早川氏) 廃藩置県後:岡山県 周辺には上記以外にも様々な藩が存在しており、最終的に『岡山県』として集約された。 廃藩置県後の『岡山県』になるまでの変遷については、岡山県のWikipediaに記載がある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C 以下は、Wikipedia内に掲載されている変遷図。 ( 出典:  https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/Haihantiken_okayama.PNG/800px-Haihantiken_okayama.PNG ) こうして一覧を見てみると、現在の総社市に相当するのは浅尾藩であった事が分かる。 ■総社村の誕生 『旧高旧領取調帳』によると、明治初年時点では「総社」という村は存在していなかった。 1871年、廃藩置県。 1871年、第1次府県統合により、「浅尾県」は「深津県」の管轄となる 1872年、「深津県」から「小田県」になる 1875年、第2次府県統合により「岡山県」の管轄となる →これと同時に、八田部村・清水村が合併して『総社村』となる  ←総社村

総社市の『歴史』について<江戸時代編>

■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(江戸時代)』について触れてみる。 なお、江戸時代は1603年~1868年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■複雑な統治? 総社市のWikipediaには、以下の記載がある。      > 備中松山藩領、旗本・蒔田(まいた)氏が文久3年(1863年)大名となり誕生した浅尾藩、岡田藩、足守藩、岡山藩支藩である生坂藩(岡山新田藩)、三須知行所、宝福寺領などが混在し、かなり複雑な統治であった。 正直良くわからないので、各藩について一つずつ見てみる。 (一部明治時代にかかっている表記あり) ■浅尾藩 藩庁は、浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。 藩主は、蒔田家。 1600年、第1代藩主・蒔田広定は、豊臣家恩顧の大名として、関ヶ原の戦いの西軍につく。 1603年、関ヶ原の戦いには敗れたが、罪を許され、備中浅尾10000石に転封され、備中浅尾に陣屋を構え、浅尾藩を立藩。(この時は外様大名) 1636年、第2代藩主・蒔田定正は、父の遺言により、弟に3000石を分与。自分の所領と合わせて8310石となり、大名から旗本になる(大名の条件は10000石) 1640年、第3代藩主・蒔田定行からは、7700石となる。 1717年、蒔田氏は、備中国分寺の再建に取りかかる。(蒔田家の誰かは不明) 1821年、五重塔(現・重要文化財)の再建を開始。 1844年、五重塔(現・重要文化財)の再建を完了。 1863年、第?代藩主・蒔田広孝は、江戸市中警備(新徴組?)の功績で、10000石に高直しをされて、再度大名となる。(何代目藩主なのか不明。この時から譜代大名に昇進。) 1864年、蒔田広孝は、禁門の変において、京都見廻役として長州藩勢撃退に活躍。 1866年、長州藩による倉敷浅尾騒動により、倉敷代官所が焼払われ、総社浅尾藩陣屋を襲撃された。 1868年、戊辰戦争にて、新政府に与して岡山藩・岡田藩と行動を共にする。 1871年、廃藩置県により、浅尾藩は浅尾県になる。 1897

総社市の『歴史』について<室町時代編>

■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(室町時代)』について触れてみる。 なお、室町時代は1336年~1573年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■巨匠・雪舟 総社市民ならみんな知っているであろう雪舟。 1420年、備中国赤浜に生誕。 幼い頃、井山宝福寺に入り、僧となる。 10歳頃、京都の相国寺に移る。この時、禅を春林周藤から学び、絵を天章周文から学んだ。 1454年、周防国(現在の山口県東南部)に移り、守護大名である大内氏の庇護を受けて、画室雲谷庵を構える。 1465年、楚石梵琦という高僧より、雪舟二大字を得る。この頃から「雪舟」を名乗ったと考えられている。(「二大字」の意味は調べても分からなかった・・・。) 1467年、遣明船で明へ渡航。約2年間本格的な水墨画に触れる。明の画家である李在より中国の画法を学んだとされる。 1469年、明より帰国。 その後、周防国(山口県東南部)、豊後国(大分県)、石見国(島根県西部)、美濃国(岐阜県南部)、丹後国(京都府北部)など全国に赴き、創作活動を行う。 没年は、1502年や1506年など様々な説がある。 雪舟の逸話として有名なのが、涙で描いたネズミ。 このネズミが、総社市のゆるキャラであるチュッピーのモデルにもなっている。 雪舟が神格化されたのは、江戸時代。 室町時代中期から江戸時代末期まで400年にわたって活動していた画壇である狩野派が、雪舟を師と仰いだ事が大きい。 これにより各大名が雪舟の作品を求めた事で、日本を代表する歴史上の人物の一人となっている。 ▼参考文献 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%88%9F https://www.shokoku-ji.jp/reference/relation/sesshu/ https://yuagariart.com/uag/okayama01/ ■「総社宮周辺は門前町として、さらには宿場町として栄える。」 Wikipediaに記載されていた文

総社市の『歴史』について<平安時代編>

■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(平安時代)』について触れてみる。 なお、平安時代は794年~1185年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■湛井堰の築造 総社市井尻野にある『高梁川合同堰』の歴史は、平安時代まで遡る。 言い伝えとしては、岡山県HPの以下のページに掲載されている。 https://www.pref.okayama.jp/page/269434.html 現在の岡山市妹尾を指揮していた妹尾兼安という武士が領主として、妹尾郷の農業を行っていた。 しかし、雨の少ない年には米や野菜が収穫できなかった。 そのため、高梁川の上流である、現在の総社市井尻野に湛井堰を築造した。 これは『十二ヶ郷用水』とも言われ、総社市はもちろん清音村、山手村、岡山市、倉敷市に及び約5千ヘクタールの農地を潤している。 十二ヶ郷用水については、岡山県HPの以下のページに掲載されている。 https://www.pref.okayama.jp/page/269449.html ■最後に Wikipediaに湛井堰の話しか載ってなかったので少なくて申し訳ないですが、総社市を含む現在の用水の起源となったのは平安時代だったんですね。 しかも、妹尾に存在していた武士がきっかけというのも初めて知りました。

総社市の『歴史』について<奈良時代編>

■概要 総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。 そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(奈良時代)』について触れてみる。 なお、奈良時代は710年~794年に相当する。 総社市のWikipediaのURLは以下の通り。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82 ■吉備分国 そもそも『吉備国』とは、古代日本の四代王権の一つであり、「大和」「筑紫」「出雲」と並ぶ存在であった。 巨大古墳文化を有していたり、優れた製鉄技術があった事が、強国となる原動力であったとされている。 朝鮮の新羅から援助により鉄素材の入手や鍛鉄技術の獲得が進んだ事もあり、豪族が力を付けていった。 また、現在の岡山平野南部は内海となっていたため、弥生時代から塩の生産地ともなっていた。 689年、持統天皇が『飛鳥浄御原令』の発布をもって、備前国・備中国・備後国に分割。 713年、備前国から美作国を分立。 なお、吉備分国に関連する用語として以下が存在する。 ・備洲:備前・備中・備後のいずれか、あるいは全体を指す名称 ・三備:備前・備中・備後の三国の総称 ・両備:備前・備中・備後のうち、いずれか2カ国を指す名称、および2カ国に跨る地域 ■国府の設置 現在の総社市金井戸辺りに、備中国の「国府」が置かれた。 国府とは、その国の政治上・軍事上の中心として、中央から派遣された国司という官僚が執務を行なった場所。 備中国には9郡97郷が管轄下として存在していたため、これらの中心が総社市にあった事が分かる。 国府であった史跡は、今でも「伝備中国府跡」に残る。 https://www.city.soja.okayama.jp/bunka/kanko/shitei_bunkazai/si/si_29.html ちなみに、周辺国の国府は以下に設置された。 ・美作国の国府:岡山県津山市総社 ・備前国の国府:岡山県岡山市中区国府市場 ・備後国の国府:広島県府中市府川町 ■国分寺や備中国総社宮の建立 国府が置かれると同時に、国府の周辺には「国分寺」「国分尼寺」「総社」が置かれた。 ここでいう「総社」とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(=合祀)神社であり、現在