総社市の『歴史』について<明治時代編>

 ■概要

総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。

そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(明治時代)』について触れてみる。

なお、明治時代は1868年~1912年に相当する。


総社市のWikipediaのURLは以下の通り。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82



■廃藩置県

以前の記事で江戸時代について触れた際、廃藩置県(1871年)により各藩が県に置き換わった事を記載した。

以下はそのおさらい。


  • 浅尾藩
    • 藩庁:浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)
    • 藩主:蒔田家
    • 廃藩置県後:浅尾県
  • 岡田藩
    • 藩庁:岡田陣屋(現在の岡山県倉敷市真備町岡田)
    • 藩主:伊東家
    • 廃藩置県後:岡田県
  • 足守藩
    • 藩庁:足守陣屋(現在の岡山県岡山市北区足守)
    • 藩主:木下家(一時的に浅野氏)
    • 廃藩置県後:足守県
  • 岡山藩
    • 藩庁:岡山城(備前国御野郡、現在の岡山県岡山市北区)
    • 藩主:池田家(最初だけ小早川氏)
    • 廃藩置県後:岡山県


周辺には上記以外にも様々な藩が存在しており、最終的に『岡山県』として集約された。

廃藩置県後の『岡山県』になるまでの変遷については、岡山県のWikipediaに記載がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C


以下は、Wikipedia内に掲載されている変遷図。

( 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/Haihantiken_okayama.PNG/800px-Haihantiken_okayama.PNG )



こうして一覧を見てみると、現在の総社市に相当するのは浅尾藩であった事が分かる。



■総社村の誕生

『旧高旧領取調帳』によると、明治初年時点では「総社」という村は存在していなかった。

  • 1871年、廃藩置県。
  • 1871年、第1次府県統合により、「浅尾県」は「深津県」の管轄となる
  • 1872年、「深津県」から「小田県」になる
  • 1875年、第2次府県統合により「岡山県」の管轄となる
    • →これと同時に、八田部村・清水村が合併して『総社村』となる  ←総社村の誕生



■総社町の誕生

  • 1878年、郡区町村編制法の施行により、行政区画として「賀陽郡」が発足
  • 1889年、町村制の施行により、各村が発足
    • →これと同時に、井手村が『総社村』と合併
    • →これに併せて、『賀陽郡総社村』となる
  • 1896年、総社村が町制の施行により、『賀陽郡総社町』となる  ←総社町の誕生
  • 1900年、郡制の施行により、賀陽郡と下道郡が合併し「吉備郡」が発足
    • →これと同時に、『賀陽郡総社町』から『吉備郡総社町』に変更
  • 1908年、『吉備郡総社町』が、『吉備郡浅尾町』と合併


明治時代ではここまで。

『総社市』が誕生するのは、昭和時代に入ってからとなる。



■最後に

明治時代は、大政奉還の影響で、行政区画の統廃合が繰り返されていた事が分かった。


調べていて2つ驚いた事がある。


1つは、総社という村が存在していなかった点。

総社宮や五重塔もあるのに、村としては存在していなかったのには違和感を感じた。


1つは、1908年に浅尾町を吸収した点。

江戸時代から浅尾藩として名前が存在していたのに、総社に吸収されたのはどういう意図があったのだろうか。

やはり歴史の深さで勝ったのだろうか。そうだとしたら一つ目の疑問が謎ではあるが・・・。


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