総社市の『歴史』について<奈良時代編>
■概要
総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。
そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(奈良時代)』について触れてみる。
なお、奈良時代は710年~794年に相当する。
総社市のWikipediaのURLは以下の通り。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82
■吉備分国
そもそも『吉備国』とは、古代日本の四代王権の一つであり、「大和」「筑紫」「出雲」と並ぶ存在であった。
巨大古墳文化を有していたり、優れた製鉄技術があった事が、強国となる原動力であったとされている。
朝鮮の新羅から援助により鉄素材の入手や鍛鉄技術の獲得が進んだ事もあり、豪族が力を付けていった。
また、現在の岡山平野南部は内海となっていたため、弥生時代から塩の生産地ともなっていた。
689年、持統天皇が『飛鳥浄御原令』の発布をもって、備前国・備中国・備後国に分割。
713年、備前国から美作国を分立。
なお、吉備分国に関連する用語として以下が存在する。
・備洲:備前・備中・備後のいずれか、あるいは全体を指す名称
・三備:備前・備中・備後の三国の総称
・両備:備前・備中・備後のうち、いずれか2カ国を指す名称、および2カ国に跨る地域
■国府の設置
現在の総社市金井戸辺りに、備中国の「国府」が置かれた。
国府とは、その国の政治上・軍事上の中心として、中央から派遣された国司という官僚が執務を行なった場所。
備中国には9郡97郷が管轄下として存在していたため、これらの中心が総社市にあった事が分かる。
国府であった史跡は、今でも「伝備中国府跡」に残る。
https://www.city.soja.okayama.jp/bunka/kanko/shitei_bunkazai/si/si_29.html
ちなみに、周辺国の国府は以下に設置された。
・美作国の国府:岡山県津山市総社
・備前国の国府:岡山県岡山市中区国府市場
・備後国の国府:広島県府中市府川町
■国分寺や備中国総社宮の建立
国府が置かれると同時に、国府の周辺には「国分寺」「国分尼寺」「総社」が置かれた。
ここでいう「総社」とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(=合祀)神社であり、現在の市名である『総社市』の由来となっている。
この「総社」が、現在の『備中国総社宮』として今も残っている。
■吉備真備
奈良時代の公卿であり学者。
第9次遣唐使の留学生であり、18年の間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。
唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは吉備真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほど。
帰朝時には、経書、天文暦書、日時計、楽器、音楽書、弓、矢などを献上。
その後急速に昇進するが、藤原仲麻呂政権下で左遷され、再度遣唐使として唐へ行く。
再度帰朝後も活躍は許されずにいたが、藤原仲麻呂の乱が起きた。
乱そのものは失敗に終わったが、その功労により、中納言→大納言→右大臣へと昇進。
光仁天皇の即位後、老齢を理由に辞職。
775年10月2日に崩御。享年81歳。
■最後に
総社市のシンボルである『国分寺』は奈良時代に設置されたものだったんですね。
また、『総社市』という地名の由来も奈良時代からというところは、非常に歴史を感じます。
吉備真備は、厳密には現在の倉敷市真備町出身なので総社市ではないですが、素敵な方だったので取り上げてみました。
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