総社市の『歴史』について<江戸時代編>
■概要
総社市のWikipediaには、総社市の歴史について触れられている。
そもそも歴史があまり得意ではないが、総社を知る上で歴史は押さえておく必要があると思ったので、今回は『歴史(江戸時代)』について触れてみる。
なお、江戸時代は1603年~1868年に相当する。
総社市のWikipediaのURLは以下の通り。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E7%A4%BE%E5%B8%82
■複雑な統治?
総社市のWikipediaには、以下の記載がある。
> 備中松山藩領、旗本・蒔田(まいた)氏が文久3年(1863年)大名となり誕生した浅尾藩、岡田藩、足守藩、岡山藩支藩である生坂藩(岡山新田藩)、三須知行所、宝福寺領などが混在し、かなり複雑な統治であった。
正直良くわからないので、各藩について一つずつ見てみる。
(一部明治時代にかかっている表記あり)
■浅尾藩
藩庁は、浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。
藩主は、蒔田家。
- 1600年、第1代藩主・蒔田広定は、豊臣家恩顧の大名として、関ヶ原の戦いの西軍につく。
- 1603年、関ヶ原の戦いには敗れたが、罪を許され、備中浅尾10000石に転封され、備中浅尾に陣屋を構え、浅尾藩を立藩。(この時は外様大名)
- 1636年、第2代藩主・蒔田定正は、父の遺言により、弟に3000石を分与。自分の所領と合わせて8310石となり、大名から旗本になる(大名の条件は10000石)
- 1640年、第3代藩主・蒔田定行からは、7700石となる。
- 1717年、蒔田氏は、備中国分寺の再建に取りかかる。(蒔田家の誰かは不明)
- 1821年、五重塔(現・重要文化財)の再建を開始。
- 1844年、五重塔(現・重要文化財)の再建を完了。
- 1863年、第?代藩主・蒔田広孝は、江戸市中警備(新徴組?)の功績で、10000石に高直しをされて、再度大名となる。(何代目藩主なのか不明。この時から譜代大名に昇進。)
- 1864年、蒔田広孝は、禁門の変において、京都見廻役として長州藩勢撃退に活躍。
- 1866年、長州藩による倉敷浅尾騒動により、倉敷代官所が焼払われ、総社浅尾藩陣屋を襲撃された。
- 1868年、戊辰戦争にて、新政府に与して岡山藩・岡田藩と行動を共にする。
- 1871年、廃藩置県により、浅尾藩は浅尾県になる。
- 1897年、蒔田広孝は、第3代浅尾村長になる。
- 1908年、蒔田広孝は、初代総社町長になる。
■岡田藩
藩庁は、岡田陣屋(現在の岡山県倉敷市真備町岡田)。
藩主は、伊東家。
- 1614年、第1代藩主・伊東長実は、豊臣家の家臣として、大坂の陣の戦いで豊臣家につく。
- 1615年、大坂の陣には敗れたが、罪を許され、10343石に転封され、岡田藩を立藩。(外様大名)
- 1718年、第5代藩主・伊東長救の時代に、領民による一揆が起こった。(=新本義民騒動)
- 1868年、戊辰戦争にて、新政府に与して岡山藩・浅尾藩と行動を共にする。
- 1871年、廃藩置県により、岡田藩は岡田県になる。
■足守藩
藩庁は、足守陣屋(現在の岡山県岡山市北区足守)。
藩主は、木下家。(一時的に浅野氏)
- 1601年、播磨国にある姫路城主であり25000石を有していた木下家定が、同じ25000石で足守に転封され、足守藩を立藩。(外様大名)
- 1610年、浅野長晟が24000石で入部したため、1615年までは浅野家が藩主に。
- 1615年、第2代藩主・木下利房が、大坂の陣にて徳川家につき、その功もあり、改めて25000石で入部したため、改めて木下家が藩主に。
- 1871年、廃藩置県により、足守藩は足守県になる。
■岡山藩
藩庁は、岡山城(備前国御野郡、現在の岡山県岡山市北区)。
藩主は、池田家。(最初だけ小早川氏)
- 1600年、岡山城主であった宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いにおいて豊臣家五大老として西軍についていた。しかし、西軍から寝返り東軍を勝利に導いた小早川秀秋が入封した。
- 1603年、姫路藩主であった池田輝政の次男・池田忠継が280000石で入封し、第1代藩主となる。(小早川家は無嗣子で没した)
- 1615年、池田忠継が無嗣子で没したため、弟・池田忠雄が315000石で入封し、第2代藩主となる。
- 1632年、池田忠雄の没後、従兄弟・池田光政が315000石で入封し、第3代藩主となる。
- 1669年、池田光政は、全国に先駆けて藩校「岡山学校」を開校。
- 1670年、池田光政は、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市)を開校。
- 1672年、池田光政の隠居に伴い、長男・池田綱政が、第4代藩主となる。
- 1700年、池田綱政は、日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成。
- 1863年、池田茂政が第9代藩主となる。(池田茂政は徳川家の九男であり、徳川慶喜の実弟。第8代藩主・池田慶政の婿養子として岡山藩に入る。)
- 1867年、大政奉還。
- 1868年、徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられるも、池田茂政は慶喜の実弟なので、討伐軍に加わらなかった。
- 1868年、戊辰戦争では、池田茂政は病を理由に隠居し、参加していない。(第10代藩主・池田章政が参加した)
- 1871年、廃藩置県により、岡山藩は岡山県になる。
■最後に
「総社市」という意味だと、浅尾藩が非常に大事な存在であった事が分かった。
周辺の藩も関ヶ原の戦いで西軍について外様大名になった藩主ばかりだったからか、
蒔田家についてもっと深彫りしていくと、総社についてもっと知れるような気がする。
(「室町編」で宿場町について触れたが、江戸時代にこの宿場町がどう栄えていたのかも、ここを深彫りすると分かってきそう)
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